天国にはもう上がない
わたしが働いている場所で子どもを見かけるなんてことは早々にない。仕立てた洋服を卸にいくことばかりで、個人的な商売はあまりしたことがなかった。けれども彼はあらわれた。洗濯を失敗したのか色あせたニットを着てわたしの前に立っていた。
子どもは木村と名乗った。父親は元マフィアだったが今ではわけありで隠れ住んでいる老人で、この子どもはそのマフィアたちから命からがらに逃げ出してきたひとり息子だった。
わたしがそんなことを知っているのは、つまり、街中で噂されているからだった。多くの人間が彼ら家族のことを知っていて、あえて触れないようにしてきた。
大切な妻であり、母であった女をなくした男は子どもを育てるのに随分と苦労していた。なにせ、今まで家事ひとつまともにこなしたことがなかったのである。保育園に行くのも一苦労だった。なにせ、必要なカバンというものがいっぱいある。そうしてひとりの人間を頼ることにした。
彼女は縫製所を家族で営む一家の母親だった。農家をしていて、その傍らですばらしい洋服たちを作ってみせた。元々大きなデパートにも卸していたというのだから、その手は確かなものである。
木村は息子を連れて彼女へ会いに行った。子ども用にこういうものがほしい、と保育園でもらった書類をみせた。母親はうんうんと頷いてわかりました、と頷いた。
そして息子と視線を合わせると「君はなにがすき?」と聞いた。息子は俯いたまま返事をしなかった。
ある日、木村家の子どもがひとりで-名前2-の家へと駆け込んできた。息を切らして「たすけて」と言うので事情を聞くと、鳥が追いかけてきたから怖くて逃げてきた、と途切れ途切れに語った。
話を聞いてみるとここいらに住んでいる雉の子どもがどうやら人に慣れすぎてしまったらしく木村少年のことを追いかけてきてしまったようだった。
ふぅ、ふぅ、と泣きそうになる彼にわたしは「君はなにがすき?」ともう一度たずねた。
「……お花」
木村少年の父親の職業を、-名前2-は本当のところよく知らなかった。実際に会ってみたらヤクザらしい雰囲気は全くなかったので、話を聞くまでは分からないと思ったのだ。
もしかしたら女の子みたいとからかわれるのが嫌なのかも、とどこか見当違いの配慮をしながら-名前2-は「それじゃあこんなのはどうかな?」と学校用品につけるためのアップリケをみせた。
木村少年はどれにするか迷ったあと、てんとう虫を選んだ。
「そっち? お花じゃなくていいの?」
「うん」
「そっか」
-名前2-にはよく分からなかったが本人の意思を尊重し、てんとう虫のアップリケをつけた。
木村少年は落ち着いていたし、家にも帰れるようだったが-名前2-は急かすようなことはしなかった。ちょっと見ていく? とミシンのある部屋へと連れていってくれた。
足踏み式のそれは木村少年の母親が使っていたものとは全くちがうものだった。-名前2-は木村少年にお菓子の入ったカゴを渡すと「好きなのをどうぞ」と言い、ミシンを動かしはじめた。
ガタガタとも、チクチクともちがう不思議な音が木村少年の耳をうった。
「……お母さんも、縫い物上手だった」
「そっかあ」
「このミシンと、ぜんぜん違うやつ」
「このミシンは確かにふつうのお家じゃないかもねぇ」
「……お母さんに、会いたい」
「天国にはねー、死んだ人しか行けないんだよー」
-名前2-は、いたって普段通りに返事をした。それでも木村少年にはそんなふうに返事がくるとは思っておらずびっくりして-名前2-のことを見つめていた。
「僕も、死ねば会えるかな?」
「どうかなあ。天国に行って帰ってきた人はいないからなあ」
「今すぐ会いたいんだ」
「天国で安らかにしているかもわからないしねえ」
「天国ってそんなに嫌なところなの?」
「嫌なところじゃないといいねぇ」
-名前2-の言葉ひとつひとつが胸をつきさすように重く、痛かったが木村少年は問答を続けた。それが五分程かかったところで-名前2-は「よーし、できた!」と話を切り上げてしまった。
「君のお母さんも、こういうの作りたかっただろうね」
「……天国で作ってもらえばいいよ」
「天国でも学校行くの? やめようよ、そんなの想像したくないよ」
ふにゃりと木村少年は笑った。天国。死んだ人しか行けない場所。木村少年のことを慮ってやさしい言葉しか聞かされなかった少年はまっすぐと自分がいつか死ぬことを願った。
そうして、妻と出会い、子どもが生まれた時、少年だった木村は天国への憧れを持つことをやめた。
――
目の前には、傷ついた子どもがいる。息子のマサルがいる。この子は眠っている間にも、自分より先に天国への道を進んでいる。
指先から感覚が消えていく。あのときのおばさんの言葉を思い出す。
「天国には死んだ人しか行けない」
まだ、大丈夫。まさるは、死んでない。